2023年の秋に三陸を旅してきました。東日本大震災(2011.3.11発生)の跡を知りたいという気持ちもありましたが、 短い日程で車を使わなかったこともあり、それはあまり見学することはできませんでした。 その他で、三陸には多くの地学探訪の適地がありました。
(1) 東日本大震災遺構・伝承館(宮城県気仙沼市)
この遺構(伝承館)は、旧気仙沼向洋高校(県立高校:現在の学校は近くの高台に移転)に、 津波の被害をそのまま残す形で作られていました。この地は、標高が(現在)1m以下の場所で、 [写真1]に見えるのは、旧校舎と再建した工場や(海側でも)やや高台の住宅です。
実はこのなにもない平地にはいくつもの住宅が建っていました。 そこを襲った津波は、校舎の4階の床上25cm(地上から約12m)まで達しました。 震災時に残っていた約170名の生徒は数人の教職員とともに高台に避難、 残った教職員20名と校舎改修工事中の関係者25名は屋上に避難して、奇跡的に全員無事だったそうです。
この場所は、気仙沼駅からBRT(鉄道の線路跡を利用した専用道も使ったバス)で陸前階上(はしかみ)駅まで約20分、 その後は徒歩で約20分でした。旧校舎に接続して伝承館([写真1]の図中)があります。
遠めには鉄筋の校舎がそのまま立っているように見えますが、[写真2]の4階ベランダの傷は、 津波で冷凍工場が流されてきて激突した跡です。 なんともすさまじいものです。また、[写真3]で見られるように、
3階までの全ての窓は内側に向けて破損し、コンクリートの柱と壁、補強の鉄骨が残っているだけで、 [写真4]のように、天井や教室内の備品はぐしゃぐしゃに散乱していました。 外からも丸太などが流れついていますが、[写真5]の教室内の車は約10mの高さの3階のベランダを越えて入り込んだものです。
[写真6]は掲示されていた津波の写真で、見えている3階の校舎の間の通路もこの後飲み込まれたとあります。 [写真7]は平屋の体育館跡で、津波にのみ込まれた屋根は全く残っていませんでした。
映像や資料では多くを見てきましたが、実際の遺構を見ると強い印象が残りました。 こうした施設を残すことの重要性を感じます。
(2) 釜石湾と市立鉄の歴史館(岩手県釜石市)
釜石市の釜石湾もリアス海岸です。 湾口には世界最大深の湾口防波堤が整備されていたのに、東日本大震災ではそれが倒壊し、(付近の湾に比べてはやや低かったとはいえ) 津波痕跡高が10.1mに達し、市の中心部まで津波が来たそうです(市街図のグレーの部分はその到達域)。
釜石での製鉄業(現北日本製鉄所)は有名ですが、この市立鉄の歴史館の展示は、 江戸時代末期に日本で初めて鉄鉱石から洋式高炉で連続的に鉄の生産に成功した、歴史の紹介が中心でした。 それまでの砂鉄を使った鉄の生産は強度に問題があり、磁鉄鉱(中生代白亜紀初期に形成)が見つかっていて、 また当時の燃料の木炭となる樹木が豊富だった釜石で、近代的な製鉄業が発展しました。
写真は、初期の原料となった鉄鉱石、木炭と石灰石です。
(3) 龍泉洞 (岩手県岩泉町)
宇霊羅山のふもとにある龍泉洞は、観光コースが約700m、高低差が195mあります。 道路を挟んで反対側にある龍泉新洞(科学館)は約200mが公開されています。
龍泉洞の方は見事と言えるような鍾乳石は少なく、観光コースだと思います。 ただ、3つある地底湖の水は、水量も多く照明の仕方も良いのか鮮やかなブルーでした。
龍泉新洞の方は、この時期では観光客がほとんどいなくてひっそりとしていました。 こちらは科学館として、典型的な鍾乳石やストロー(水滴1つ分程度の中空の管状の鍾乳石)、 石筍(下から伸びる鍾乳石)、洞窟真珠(プール内の流れで核の周りに丸くなった結晶)などが、いくつか見られました。
龍泉洞へは、盛岡や花巻からのバスもありますが、私は三陸リアス線で宮古から35分、岩泉小本駅からバスで25分で行きました。
(4) 琥珀(こはく)博物館 (岩手県久慈市)
琥珀製品の加工と販売をしている企業の博物館でした。 久慈の琥珀は、日本の他の小規模な琥珀産地と違い、大きなものがまとまって出ています。 中生代白亜紀後期(約8,500万年前)の地層から産出されるもので、この時代のものは世界でも他にないため、
中に閉じ込められた当時の生物が見つかると、当時の生物の研究対象になっています。
産出したさまざまな琥珀や、ロシアの美術品、即売店、坑道跡などがあります。 久慈駅からバスで行きましたが、最寄りのバス停から2~3kmあるということで、バス停までの送迎を予約しました。
(5) 三陸海岸の景観 (岩手県)
三陸鉄道リアス線で岩手県久慈市から南下し、リアス海岸を沿線で見ました。 東日本大震災の津波の爪痕は、表面的にはずいぶん復興していましたが、 海岸付近の高い防潮堤と住宅がなくなった平地が広がっているのをたくさん見て、怖さを改めて感じました。
宮古市の浄土ヶ浜には、1933年の昭和三陸地震の「大地震の後には津波が来る」と1960年のチリ地震津波の「地震がなくとも潮汐が異常に退いたら津波が来る」という記念碑がありました。 各地の建物に、今回の津波の高さが記されていますが、忘れずに残して置くことの重要性を思います。
左の写真がウミネコとわかるのは、くちばしの先に黒い帯と赤い模様があることです。 4月から6月の繁殖期には集団営巣地に集まります。 青森県八戸市の蕪島(かぶしま)はその一つです。
ウミネコは留鳥で、よく似ている(くちばしが黄色のみ)のカモメは冬鳥(越冬にやって来る渡り鳥)です。
長谷川静夫(科教協静岡)skrc@sf.tokai.or.jp