2016年の晩秋に、南紀を数日間で旅をしました。そこで目にした地学関連の自然や施設を紹介します。それぞれ、「吉野熊野国立公園」に指定されていて、また「紀熊野ジオパーク」1つです。
(1)橋杭岩(はしぐいいわ)
―火成岩の岩脈が海にそそり立つ
JR串本駅(串本町)から1.8kmほど海岸沿いを北東に行ったところにあります。橋杭岩の横には、「道の駅くしもと橋杭岩」があって、駐車もできます。
橋杭岩は、幅15mの橋脚のような巨岩が、海岸から長さ900m先まで紀伊大島に向かって並んでいます。
新生代新第三紀中新世の中頃1800万~1500万年前の浅い海底に陸から砂や泥が流れ込んで堆積しました(熊野層群:右地質図の青~緑の部分)。その後、1400万年前のこの地域の火成活動に伴って、泥岩層に流紋岩質のマグマの貫入があり、できた岩脈が橋杭岩です。写真で見られるように白い岩肌をしています。岩脈は「石英斑岩(珪長質の半深成岩)」で、周囲の泥岩は浸食されて岩脈だけが残りました。周囲の海に落ちている岩は、この岩脈が風化して落下したもので、津波の影響で流されたと言われていて、岩脈から遠ざかるにつれ小さくなるように見えます。
(2)潮岬―海岸段丘の上に灯台
潮岬(串本町)は、上の地質図で下左側の主に赤い部分(下右側は紀伊大島)で、赤い部分は橋杭岩と同じ火成活動(橋杭岩に続く時期)で形成された「潮岬火成複合岩類」と呼ばれるものです。玄武岩質や流紋岩質のマグマの貫入や噴出があり、様々な火成岩ができました。
灯台は、海岸段丘の上に立っています。紀伊半島は隆起傾向にあり、さらに巨大地震による隆起や、氷河時代の海退と間氷期の海進によって海岸段丘が形成されました。右の写真は、灯台の上から撮ったものですが、標高80mの高位段丘が見られます。低位段丘(標高40~60m)もありますが、私は気づきませんでした。また、右写真の段丘面の上に見られる建物(潮岬観光タワー)の横に、「南紀熊野ジオパークセンター」ができたそうです。
この潮岬は「陸繋島」で、島だった潮岬に砂州が伸びて紀伊半島とつながり、その間に串本の町ができました。上の地質図の白い部分で、1万年前以降の新生代第四紀完新世(沖積世)にできたものです。陸繋島とわかる展望ができる場所があるかは気づきませんでした。
この後、白浜町に向かう途中で、「すさみ町立エビとカニの水族館」という小さな施設によりました。
(3)三段壁(さんだんべき)と千畳敷
―海岸段丘と海食台
三段壁や千畳敷(白浜町)は、橋杭岩の堆積層と同じ時期(新第三紀中新世)に浅い海に泥や砂、礫が堆積したもので、「田辺層群」と言います。ここでは、堆積層が良く見られます。
上の写真左は三段壁というところですが、堆積岩でできた高さ50mの海岸段丘です。尚、語源は漁師達が舟や魚群を見張った「見壇(みだん)」が変化したという説があるようです。
中の写真は千畳敷で、三段壁の北側に続く広大な地形(面積2ha)です。堆積岩の「海食台(海面直下の海底が波で削られた平面状の地形)」が地上に現れたものです。右の写真は、砂層の中に「基底礫(砂より重いので先に堆積した礫)」と見られるものがあります。浅い海底を示す「生痕化石」もあるそうです。
(4)南方熊楠顕彰館 他
左と中の写真は「南方熊楠顕彰館」(田辺市)です。自宅跡で広い敷地が植物におおわれていました。南方熊楠は、近代日本初期の在野の博物学者・生物学者・民俗学者として有名で、粘菌など隠花植物の研究や、神社合祀令による鎮守の森の伐採で生態系が破壊されることに反対したなど、多方面な功績があります。
尚、「南方熊楠記念館」(白浜町)は改築中で見学できませんでした。
右の写真の「京都大学白浜水族館」(白浜町)にもよりました。
執筆:長谷川静夫(科教協静岡)skrc@sf.tokai.or.jp
この記事は、「科教協静岡ニュース」No.70(2023.11)に掲載したものです。