(2020.5.8 作成完了 2024.1.31 図の一部訂正)
静岡市の市街地を形成する静岡平野と清水平野は、平野としてはやや変わった特徴を持っています。それは、平野を形成した安倍川と巴川の特徴にも関わっています。
【目次】
(1)静岡平野と清水平野の写真
(2)平地の高さ(標高)が、なぜこれほど違うの?
(3)平野をつくる川の様子が違います
(4)静岡平野と清水平野は、でき方が違います
(5)昔の地形の名残を探して
(1)静岡平野と清水平野の写真
(この項目の写真のみ、各々約200KB程度)
① 桜峠から竜爪山への登り口付近で見た静岡平野
賤機山(しずはたやま)丘陵上で、北側から見た平野の姿。
左右(東西)に走る高架橋は、手前が新静岡インターにつながる「静岡南北道路」、遠方が「静清バイパス(国道1号線)」です。 高架橋周辺の市街地のない部分は麻機(あさはた)低地です。巴川の洪水対策として作られつつある麻機遊水池とその予定地になっています。 谷津山の右(西)が静岡駅周辺、左(東)が東静岡駅周辺です。遠方(南)に駿河湾が見えます。
尚、右(西)側の賤機山の山麓から小さい丘が切り離されたようなくぼみは、日本列島を縦断する「糸魚川-静岡構造線」という大断層が通っているところと言われています。 この大断層は、竜爪山の東側の中腹を通り静岡平野の地下を通っていると考えられています。
② 梶原山(かじわらやま)から見た静岡平野の北部
賤機山丘陵の全景と、その東側が見えます。
写真では見えませんが、賤機山の向こう側を安倍川が右(北)から左(南)に流れています。賤機山の手前は、左が市街地、中央から右が麻機低地周辺で、そこを巴川が流れています。さらに手前の市街地には、巴川の支流の長尾川が流れています。
③ 梶原山から見た清水平野
清水平野を、西側から見ています。
右(南)から中央に三保半島が、その向こうに駿河湾が見えます。そのさらに遠方には、伊豆半島が見えています。高架道路は、左側の手前が東名高速道路、右から左が静清バイパスです。中央付近には巴川が見えます。
「写真で見る静岡・清水平野の姿」 → (ここをクリックしてください)
【参考】Webサイト「しずおか河川ナビゲーション」(静岡県河川砂防局)には、この平野の俯瞰的地形図があり、イメージしやすいと思いました。(http://www.shizuoka-kasen-navi.jp/)
(トップページ → 中部の水系のページへ → 安倍川水系 → 川の紹介 → 地形・地質 のページに)
(2)平地の高さ(標高)がなぜこれほど違うの?
賤機山丘陵の北部を貫く「新桜峠トンネル」の両側では、ずいぶん違う風景が見られます。
② トンネルのすぐ東側から見た静岡平野
かなり下(標高差約50m)に羽高(はたか)団地が見え、その向こうに静岡平野が広がっています。
③ トンネルの西側に広がる平地
トンネルとほぼ同じ高さに、鯨ヶ池(くじらがいけ)が広がり、その向こうの5m以上高いところに、安倍川の河床があります。
尚、右の高架橋は新東名高速道路です。
④ 東西方向の地形断面図をつくる
25000分の1の地形図の「静岡東部」と「静岡西部」の上辺はちょうど北緯35°で、安倍川、賤機山丘陵、麻機低地の南部、巴川を横切ります。(2024.1.31 安倍川の位置等を訂正)
地形断面図の水平距離を、この地形図と同じ長さ(250mを1cm)にしました。
南側の海岸からほぼ同じ距離にあるのに、安倍川の河床と静岡平野の北部(麻機低地)の標高の差に驚きます。
なぜ、この高さの差ができたのでしょうか?
(3)安倍川と巴川で、平野をつくる川の様子が違います
① 安倍川と巴川の河床の縦断面図
この地形断面図の水平距離を、20万分の1の地形図「静岡」と同じ長さ(2kmを1cm)にしました。
地形図上の川筋に糸をはわせ、いくつかの地名のところで糸に印をつけ、水平距離を求めます。後で縮尺が小さい地図にて、その位置の標高を調べました。(2021.10.21 図の枠外の一部訂正)
② 安倍川の特徴
安倍川は、流路の長さが51kmと一級河川の中では短いですが、この流路の分水嶺(大谷嶺)の標高は2000mと高いため、全体的にの河床勾配が大きい日本でも屈指の急流です。「東海型河川」の1つと言えます。
安倍川は急流のため、下流に多量の土砂を運搬、堆積しています。そのため、下流になっても河床がたいへん高くなっています。
「写真で見る安倍川の姿」 → (ここをクリックしてください)
③ 巴川の特徴
巴川は、源流に近い浅畑沼の標高が7mで、河床勾配がたいへん緩やかな海岸低湿地を流れる河川です。「排水型河川」です。
下の写真は梶原山から見た清水の市街地で、中央を東西に走る高架橋は静清バイパス、また三保半島と駿河湾、その先に伊豆半島も見えます。市街地を通って折戸湾に注ぐ巴川も見えます。
「写真で見る巴川の姿」 → (ここをクリックしてください)
(4)静岡平野と清水平野は、でき方が違います
① 静岡平野と清水平野の地形模式図
等高線(上図の赤線)を見ると、平野の特徴がわかります。
賤機山丘陵と西側の山地の間に多量の土砂を堆積しながら流れてきた安倍川は、平野に入るとそこでも一気に土砂を堆積しました。そのため、賤機山丘陵の南端(浅間神社付近)から、扇状地状の地形ができました。海岸付近にできる平地としては珍しいです。
他方、巴川はほとんど標高10m以下の場所を、緩やかに流れています。
② 巴川流域は、約6000年前には内湾だった
縄文時代前期の今より温暖で海水面が高かった時期に、現在の巴川が流れている場所は、折戸湾からつづく内湾でした。その後、やや海水面が下がったため、その内湾は平野となりそこを巴川が流れることになりました。
巴川は、あまり堆積物を流さず、また主として粒径が小さい泥を流す程度のため平野は低いままで、多くは水を含んだ軟弱な地盤となっています。
③ 安倍川は、江戸時代以前は勝手に流れていた
近世の安倍川は、静岡平野をあちらこちらに流れていました。南の海に向かってだけでなく、北の浅畑沼方面にも流れ巴川とつながっていました。現在は安倍川の支流である藁科川は、安倍川とは別に海に注いでいました。
安倍川の流れを変え藁科川とつなげて、駿府城を中心とした城下町をつくったのは、江戸時代初期の徳川家康です。
(5)静岡平野で昔の地形の名残を探して
① 縄文時代前期の内湾の跡
賤機山丘陵の池ヶ谷付近から東を見る
緑地の中央付近から左(北)が麻機低地です。遠方には、有度丘陵、清水の市街地、駿河湾と伊豆半島が見えます。高架橋は静清バイパスです。
縄文時代前期には、内湾が駿河湾方面から、北側の清水の山と有度丘陵の間を通り、ずっと手前側に広がっていたのでしょう。
賤機山丘陵の池ヶ谷付近から北東を見る
緑地は麻機低地で、巴川の洪水対策として遊水池(麻機遊水池)がつくられつつあります。
縄文時代前期には、このあたりまで清水方面から内湾が広がっていたのでしょう。
(撮影が2004年のため、「静岡南北道路」はできていません)
麻機遊水池から西を見る
奥(西)側は賤機山丘陵で、山の麓の少し高くなったところに、麻機街道が通り住宅が並んでいます。手前の遊水池との間に、レンコン畑が広がっています。
この付近は縄文時代前期の内湾の海岸付近だったのでしょう。地盤の良いところに街道や住宅があり、昔の内湾の跡の軟弱な地盤のところに、畑や沼地が広がっています。
② 安倍川の扇状地状の地形
県庁別館(東館)の展望ロビーから北西を見る
安倍川が、賤機山の向こう側を左(南)に向かって流れています。賤機山の南端から駿府城公園のあたりに向かって、安倍川の扇状地状の地形が広がっていて、標高がやや高いところになっています。江戸時代より前には、安倍川が枝分かれしながら、このあたりをあちらこちらに流れていたのでしょう。
浅間神社の南東側から北を見る
浅間神社の南側と東側には水路があります。その水路の水は北(奥の山側)に向かって流れ、暗きょの水路と安東川を通って巴川に注いでいます。(修正:2021.5.1)
③ 扇状地の縁に伏流水(地下水)が自噴する(安東自噴帯)
大在家(葵区大岩)の自噴井戸
「竹千代の水」という名前がついています。常に水がじょろじょろと流れ出ていて、地主さんの好意で誰でも汲むことができます。
自噴井戸(葵区上足洗)
住宅地の一角で、常に水が湧き出していました。昔は、安東地区には多数の井戸がありました。
水路に湧き出す地下水の流れ(葵区安東)
住宅地を流れる水路(十二双川)で、住宅地の一角から始まり、水路の底や縁から湧き出す水で水量が増えていきます。住宅地内の水路とは思えないほどの、底の水草が見えるきれいな流れです。
「写真で見る十二双川の姿」 → (ここをクリックしてください)
④ 安倍川の流れを変える
賤機山丘陵の西側にある安倍街道(県道27号)沿いで、葵区井宮町に薩摩土手が残っています。現在は、写真の位置では県道で切られていますが、昔は右(東)側の賤機山から左(西)側の安倍川まで堤防が続いていたのでしょう。
この薩摩土手は、徳川家康が薩摩藩の島津家に命じてつくらせたもので、写真の地点から安倍川に沿って下流へ、約4kmにわたって続いていたと言われています。この土手で安倍川の流れは東から南に変えられ、そのお陰もあって駿府城下は洪水から守られ発展したと言えます。
文責:長谷川静夫(科学教育研究協議会静岡)
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