この記事は、1986年に旧ソ連(現ウクライナ)にあるチェルノブイリ(ウクライナ語でチョルノービリ)原子力発電所での悲惨な原子力事故に関わってのものですが、現在でも色あせない内容です。
旧ソビエトのチェルノブイリ原発が事故をおこしてから、世界的に原発の安全性についての議論が高まっているようです。この静岡でも、浜岡原発をかかえている私達としては自分自身にかかわる問題として、無関心ではいられません。何人かの生徒諸君からも、この問題についての質問を受けました。そこで今回は、今勉強している化学の内容と関連して、原発をかんがえていく上で、大切ないくつかの化学的な見方についてまとめてみることにしました。
「水に流す」は正しくない!
昔から日本には、「水に流す」とか「見ぬものきよし」とか「三尺流れれば澄む」ということわざがありました。これは、日本の川は急流が多かったために、そこにゴミや廃物をすてても、すぐに流れてしまい、一見きれいになったようにみえるために生れてきたことわざなのでしょう。そして、とにかく自分の目に見えなくなってくれさえすれば安心するという奇妙な考えが出来てしまったのではないでしょうか。
けれどもいま、私達はそれが全く正しくない事を知っています。それが、化学で学習した「原子の保存性」という事ですね。目に見えなくなった事(あるいは目に見えないという事)は、それが無くなってしまった事ではないのです。有害な物質は、一度自然界に放出されると、決して無くなる事はなく、それは必ずどこかに、その有害な性質のまま存在し続けるのです。原子は決して無くなったり無から生れる事はないというのが「原子の保存性」だったのですから。この事を忘れると、公害をまきちらしている工場が、その有害な排出物を「薄めて」放出するというゴマ力シに、簡単にだまされてしまうのです。
薄めたものがもどってくる!
けれども、たとえ有害な物質であっても、ずっと薄めてしまえば、生物に被害は出ないのではないかという考え方があります。確かに、ある濃度以下ではどんな毒物でも直接的な効果は出てこなくなります(この濃度の値を「しきい値」といいます)。したがって薄めてすてるという考え方は一見正しいようにみえます。でも、それは本当でしょうか。
自然界には、「生物濃縮」という現象が知られています。一般にどんな生物でも、生きていくためには、体内と周囲の環境との間で、水や空気、あるいは食べ物などの様々な物質をとりこみ、不要になった廃物を出すという事をおこなっています。そして、その物質の流れにそって周囲の環境の中に存在した有毒物が体内にとりこまれ、ゆっくりと蓄積していき、最後にはその体内の濃度が致死量をこえてしまって、ついには死にいたるというのが「生物濃縮」という現象なのです。ところで皆さんは、中学の生物の授業で「食物連鎖」という事を習っています。弱くて小さな生物が順に強く大きな生物の食物になるという、自然界の仕組みです。この「食物連鎖」と上に述べた「生物濃縮」という考え方を組み合わせると、大変恐ろしい結論が出て来るのです。それを考えてみましょう。
今、たとえば自然環境の中に「1」という濃度で、ある有害物質が存在したと考えましょう(この濃度の単位は、今ここでは問題ではありません)。この濃度は、それ自身ではまったく危険性のないほど低い濃度だったとしましょう。この中で、ある生物Aが生活して、その有害物質を「生物濃縮」によって自分の体内に1000倍の濃度に濃縮したとします(この1000倍という数字は、実際のケースからみればずっと低く考えています)。そして、その生物Aを、「食物連鎖」によって生物Bが食べ、さらにその体内で1000倍の「生物濃縮」をおこしたとします。そうすると、生物Bの体内では有害物質の濃度は1000倍の1000倍で、百万倍になってしまいます。このように「食物連鎖」が進むたびに「生物濃縮」は掛け算で働いて来ますから、最終的にはものすごい濃度にまで有害物質は濃縮されてしまう事になります。そして、その「食物連鎖」の最終段階にいるのが、もっとも強い生物である人間なのです。ですから、はじめは、たいした事はないだろうとかるく考えて、外界にわずか「1」という低い濃度で捨てた有害物質が、まわりまわって食物連鎖をさかのぼり、何億倍もの大変な濃度で、すてた人間のところにかえって来るという事がおこるのです。そしてこの事を劇的な形で証明したのが、あの悲劇の公害事件であったミナマタ病でした。そして、もちろんこの話は、原発が放出するかもしれない微量の放射性物質についても例外ではありません。これは、ごう慢な人間が「自然」をばかにすると「自然」に手ひどいしっぺがえしを食ういい例でしょう。
放射能は、にてもやいても絶対に消せない!
さて、今までに学習した原子についてのもう一つの大事な事に「原子の性質はその価電子の働きによって決まる」という事がありました。これは、もし原子が何かの化学的な変化(燃やしたり、薬品に溶かしたりなどなど)をしても、それはすべて価電子の働きによるものだという事です。つまり、どんな化学的な処理をしても、それは原子の一番外側しか変化させる事が出来ないという事を意味しています。
ところが、放射能(ある原子が放射線を出す性質をもっているという事)という問題は原子の中心にある原子核の変化なのです。ウランやプルトニウムが放射能を帯びているという事は、その原子核がすこしずつこわれながら、外部に放射線を出しているのですね。ですから、通常の化学的な方法では、原子核までは手が届かないのだから、放射能を消したり弱くしたりするという事は、理論的にいって不可能だという事になります。それに対して、他の有害な物質は何らかの化学的な変化をさせる事で、その毒性を消してやれる可能性があるといえるでしょう(毒性という事も、結局は価電子の働きによる原子の性質が元になっているのですから)。この点で「放射能」は今まで人類が直面した事のない問題だといえるでしょう。現在、原子核に直接手を加えて、放射能を消すような研究も行なわれていますが、とても実用的には無理だろうといわれています。
原子の保存性、生物濃縮と食物連鎖、価電子の働きという三つの点から原子力を考えてみました。原子力をどう考えるかは、みんなの問題です。もし放射性物質が外界にもれると、その寿命(いつまで放射能を帯びているか)は半永久的(死の灰といわれるプルトニウムの半減期は2万4千年)といわれています。ですから、今、私達が原子力の使い方に失敗すると、それはまさに君達や、君達の子孫にまで関係して来る事になってしまいます。みんなで考えてみましょう。来るべき明日の社会は、原子力とどんな関係をもてばいいのかを。 (山内一徳)
この記事は、退職されている山内一徳さんが高校に勤務しているとき、化学の授業で生徒に配布したものです。以前「静岡・高校理科サークル通信」に掲載されました。今回、「科教協静岡ニュース」№69(2023.09.09)に転載しました。
【掲載にあってのコメント】
今、福島第1原発事故で出た汚染水(アルプス処理水)の海洋放出が問題になっています。中国の反応など政治的と思える議論は論外としても、冷静に科学的に考えてみる必要はあるでしょう。
今、第一に問題になっている「トリチウム」は、質量数3の水素同位体の三重水素(H)のことで、陽子1つと中性子2つからなる原子核です。半減期12.32年でHeにβ崩壊をします。放出されるβ線は、確かに紙1枚で遮ることができる放射線ですが、体内に取り込まれたときに細胞に影響を与えないとは言いかねます。また、プルトニウムのようなものとは違い半減期が短いと言っても、12.32年で1/2、24.62年で1/4に、39.96年で1/8、‥‥で、1/100になるのは81.85年、1/1000は122.8年です。
確かに、自然界でも宇宙線と大気との反応でトリチウムは生成されているし、世界の原子力発電所からは膨大な量が排出されています。しかし、薄めても自然崩壊するもの以上には減りません。そもそも、自然界にもともとある放射性物質からの放射線の影響等もあって、細胞内での自己修復がしきれないほどDNAが変化することで生物は進化をしてきています。自然界にある放射線の影響以上の負荷を、自然にどの程度与えても生物に影響が出ないのか、個々の人間や生物に影響が出ないのかは、人間の短い科学技術の歴史でとても実験的に示されているとは思えません。廃炉処理をいつ終わらせることができるかわからないものを、自然界の濃度と比べて小さくするから大丈夫というのではなく、世界で現に多量に排出されているトリチウムの除去の研究も、例えば普通の水素原子との質量差に注目するなどして、進めるべきではないかと思ってしまいます。
さらに問題なのは、アルプス処理水では、トリチウム以外の放射性物質は検出限度以下になっていると言いますが、プルトニウムなどの放射性物質を吸着して取り除いても、完全に除去できた訳ではありません。検出限度以下の放射性物質が排出され続けていることに、違いはないと思います。
風評被害以外でも、科学的に考えてみる必要があるように思います。 (長谷川静夫 2023.09.09)